解釈
何かを信仰しようとしているわけではありません。気になった教えや記事を転記しているだけです
ほぼこちらのサイト様の転記(自分なりに意訳した箇所もあります)です。感謝!
読み方なども宗派(?)で違ってるのかもわかりません。素人の私にはそこまで理解できず、ここではゴチャマゼで転記してます
仏説・摩訶般若波羅蜜多心経
・般若(はんにゃ) :智慧(ちえ)、真実や本質を見抜く力
・波羅蜜多(はらみた):彼岸(悟りの境地)にいたる
・心経(しんぎょう) :大切な教え
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時
・觀自在: 衆生から観られつつ、多くの人々を観、救う働きが自由自在であることを指す
根源的な叡智を体得した者の働き。觀自在菩薩は観音菩薩さまを指す
『観音さまが、とても深い智慧を身につけるための修行をしていた時に』
「修行」とは、般若の智慧を完成されたということですが、それは六波羅蜜を実践されたということ
照見五蘊皆空、度一切苦厄
・五蘊は色・受・想・行・識を指す
色蘊(しきうん) :肉体などの物質
受蘊(じゅうん) :人間が感じるもの
想蘊(そううん) :人間が想うもの
行蘊(ぎょううん):人間が行うこと
識蘊(しきうん) :人間が認識するもの
『五蘊皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり』
「般若心経」が目的としているのは、「すべての人の苦しみを救うこと」にあることを念頭に解釈すべき
舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是
・舍利子: シャーリプトラ。釈尊の高弟の一人
・色: 物質的現象として存在するもの
・空: 何もない状態
『舎利子、色は空に異ならず、空は色に異ならず。色はすなわちこれ空なり、空はこれすなわち色なり。受想行識もまたまたかくのごとし』
色は空に異ならずというのは、物質的なものに実体はないということ。空は色に異ならずとは、因縁によって物質的なものが生じているということ
色即是空、空即是色については、サンスクリット語の訳では「色は空性であり、空性こそ色である。色から離れて空性はなく、空性から離れて色はない。色なるものは空性であり、空性なるもの色である」
「この世のすべては、因と縁がそろって生じている」という考えが根本にあるようです
舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減
・諸法空想: 諸法ちは万物のことで五蘊と同じ
万物の空である姿は、生ずることも滅することもないというのは、因縁が結合したり
離れたりするだけで、無から有が生じたり、有ったものが無くなったりしているわけではない
・不生不滅: すべての存在するものは根源的には空なるものであって、生ずることも滅する事もない
・不垢不淨: すべの存在するものは、本来、清浄であるとも不浄であるともいえない
・不增不減: これは(真の)バラモンの永久の偉大である。業によって増大せず、また縮小せず
『舎利子、この諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり』
「すべては因縁によって生じているのであって、汚いとかきよらかな実体というものもない。すべては因縁がくっついたり離れたりしているだけで、何かが増えたり減ったりしていない」という考えだそうです
是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法、無眼界、乃至、無意識界
『この故に、空の中には、色もなく、受想行識もなし。眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなし。眼界もなく、乃至、意識界もなし』
「空の中には」とは、すべては因縁によって生じているのだからということ
「色もなく」とは、今あると思っている物質も、因縁が離れたら別のものになるので、なくなってしまうということ
「受想行識もなし」とは、今あると思っている苦楽の感覚(受蘊)も、イメージ(想蘊)も、意思(行蘊)も、心(識蘊)も、因縁が離れたら別のものになるので、なくなってしまうということ
→ この世のすべてに実体はない
「眼耳鼻舌身意もなく」以降でも、上記考え方を別の角度からさらに詳しく説かれている
「眼耳鼻舌身意」は、認識する働きである六根といわれる
「色声香味触法」は、六根が認識する対象の六境といわれる
根によって境を認識するのは識で、例えば眼根によって色境を認識するのが眼識。ですから六根、六境、六識の18は、以下のように対応する
- 眼根 ─ 色境 ─ 眼識
- 耳根 ─ 声境 ─ 耳識
- 鼻根 ─ 香境 ─ 鼻識
- 舌根 ─ 味境 ─ 舌識
- 身根 ─ 触境 ─ 身識
- 意根 ─ 法境 ─ 意識
これらの根と境を界に置き換え、六識の後に界をつけて、18の最後を「界」としたものを「十八界」という。六根にも六境にも実体はなく、それらを認識する6つの心も、たまたま因縁がそろって存在しているだけで、因縁が離れるとなくなる。例えば目が見えなくなれば眼識はなくなり、耳が聞こえなくなれば耳識はなくなり、死ぬと、これらの心はすべて滅びます
- 眼界 ─ 色界 ─ 眼識界
- 耳界 ─ 声界 ─ 耳識界
- 鼻界 ─ 香界 ─ 鼻識界
- 舌界 ─ 味界 ─ 舌識界
- 身界 ─ 触界 ─ 身識界
- 意界 ─ 法界 ─ 意識界
無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽
『無明もなく、また無明の尽くることもなし。乃至、老死もなく、また老死の尽くることもなし』
「無明」とか「老死」とは「十二因縁」のこと。1無明・2行・3識・4名色・5六処・6触・7受・8愛・9取・10有・11生・12老死
過去の因(無明・行)と現在の果(識・名色・六入・触受)、現在の因(愛・取・有)、未来の果(生・老死)という二重の因果を示すものとして、これを三世両重の因果という
この一番最初の「無明」と最後の「老死」を挙げて、途中を「乃至」で省略して、十二因縁を表し「無明もなく、老死もない」というのは、これらの「十二因縁」に実体がないということです。すでに五蘊皆空と説かれ、この世のすべてに実体がないことと同じく十二因縁にも実体はなく、十二因縁に実体がない以上、十二因縁が尽きるということにも実体がない
別のサイト様からの転記ですが、「十二因縁」の見方の例として次の内容が記載されていました
『要するに思いのままにならない人間存在の苦の根源は無明であり、無明が滅すれば苦も滅すると、お釈迦さまは看破された 』
無苦・集・滅・道
「苦集滅道」とは四聖諦をいい、次の4つの聖なる真理のこと
- 苦諦 人生は苦なりという真理
- 集諦 苦しみの原因を明かした真理
- 滅諦 真の幸福を明かした真理
- 道諦 真の幸福になる道を明かした真理
「苦集滅道もなし」とは、これら四聖諦にも実体はないということ
無智、亦無得、以無所得故
『智もなく、また得もなし。無所得を以ての故に』
得ようとすべき物も、仮に得たとしてもそれを受ける自分も、本来は無いのですから、なるほど「智慧も無いし、得るということもない」となる
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙
・菩提薩埵: 原語ボーディサットゥヴァ(=菩薩)の音訳
・心無罜礙: 罜=引っ掛ける。礙=さまたげる、または、さわり、障碍。「心を覆うものがない」の意
『菩提薩埵の、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし』
「菩薩は六波羅蜜を行じて、彼岸に渡る智慧が完成すると、心に罣礙がなくなる」
無罣礙故、無有恐怖、遠離・一切・顛倒夢想、究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提
・顚倒夢想: 正しくものを見ることができない迷い(間違った考え)、の意
・究竟涅槃: 涅槃=原語ニルヴァーナの音訳、一切の迷いから脱した境
・三世諸佛: 過去・現在・未来にまします無数に多くの仏たち
・阿耨多羅三藐三菩提: 無上正等正覚、「この上ない、正しく平等な目覚め」「完全なさとり」
『菩提薩埵の、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙なし。罣礙なきが故に、恐怖あることなし。一切の顚倒夢想を遠離し究竟涅槃す。三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり』
「菩提薩埵」とは、菩薩のこと。「般若」とは智慧のことで「波羅蜜多」とは彼岸に到ることなので、彼岸に渡る智慧となる
「罣礙」とは煩悩のことなので「罣礙なきが故に、恐怖あることなし」とは、煩悩がなくなると恐怖がなくなるということ
「一切の顚倒夢想を遠離し究竟涅槃す」とは、智慧を完成すれば、一切の間違った考えを離れて、死ぬと究極の涅槃に入ると教えられている
「三世諸佛も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり」とは、過去、現在、未来のすべての仏さまも、彼岸に渡る智慧によって、仏のさとりを開かれたのだということ
故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚
『故に知るべし、般若波羅蜜多のこの大神呪、この大明呪、この無上呪、この無等等呪を。よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず』
「呪」というのは真言。人間の言葉は嘘偽りばかりですが、仏の言葉には「仏語に虚妄なし」といわれるように、決して嘘はない
「般若波羅蜜多のまことの言葉」を4通りにすばらしいといわれている
「大神呪」とは、不可思議なまことの言葉
「大明呪」とは、明らかなまことの言葉
「無上呪」とは、この上ないまことの言葉
「無等等呪」とは、並ぶもののないまことの言葉
ということ
「般若波羅蜜多」とは、彼岸に渡る智慧ということなので、次の
「よく一切の苦を除き、真実にして虚しからず」とは、観音菩薩のように六波羅蜜を実践し、彼岸に渡る智慧を完成すれば、自分の苦しみも他人の苦しみも本当に除くことができるということ
故説、般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経
『故に般若波羅蜜多の呪を説く。すなわち呪を説いて曰く、羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶』
「般若波羅蜜多のまことの言葉」とは、「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」であるということ
「羯諦」とは行くということで「波羅」とは向こうへということ。向こうというのは彼岸であり浄土のこと、ですから「波羅羯諦」は彼岸へ往くこと
「波羅僧羯諦」の「僧羯諦」は、到達するということで浄土へ往くということ
「菩提薩婆訶」の「菩提」は仏のさとり、「薩婆訶」は成就ということで「仏道を求め、完成して、浄土へ往って仏に生まれた」ということ
こうして観音菩薩は、舎利弗のどのように般若の智慧を完成すればいいのかという質問に答え終わった。それは五蘊皆空の因果の道理を信じて、彼岸へ向かって布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜を実践しなさいということ。これが『般若心経』の結論です
六波羅蜜
『布施』
見返りを求めない応分の施しをさせていただく事をいいます。貪欲の気持ちを抑えて、完全な恵みを施すことです。布施行は物質だけではありません
『持戒』
道徳・法律等は人が作り現在はますます複雑になっています。私たちは高度な常識を持ち、瞬時瞬時に自らを戒める事が肝要です
『忍辱(にんにく)』
如何なる辱めを受けても、堪え忍ぶことが出来れば苦痛の多い現代社会において、自らが他の存在に生かされていることがわかり、全ての人の心を我が心とする仏様の慈悲に通じることとなります
『精進』
不断の努力をいいます。我々人の生命は限りがあります。ひとときも無駄にすることなく日々誠心誠意尽くすことです
『禅定』
冷静に第三者の立場で自分自身を見つめることをいいます
『智慧』
我々は本来仏様の智慧を頂戴してこの世に生をうけております。しかし、貪りや怒り愚痴によってその大切な智慧を曇らせてしまいがちです。 布施・持戒・忍辱・精進・禅定の修行を実践しどちらにもかたよらない中道を歩み、此の岸から彼に岸へ・・・
神仏の存在と科学
例えばキリスト教徒は、キリストの存在を信じお祈りを捧げている。一方日本人は、葬儀の時だけお経を唱える(仏教での葬儀の場合)が、多分私を含め本当の所は、仏様はいようがいまいがどちらでもいいと考えている人が多いのだろうと思います
科学で証明できない「神、仏、霊・・・」などいる訳ないという方もいます。では我々が頼っている科学とは何でしょうか?
『水は水素と酸素できている』は学生の時に勉強して鵜呑みにしてます。誰か水素と酸素を見たことはありますか?物質は素粒子でできているのを誰か見たことありますか?科学のほとんどは見たことのない事象を間接的な事象の観察と、人間が勝手に作り上げた理論との整合で正しいといっているだけです
『宇宙は138億年前のビックバンで生まれた』『光は波動であり粒子である』やトランジスタのトンネル効果、不確定性原理などなど、正直勉強したとしても信じられるものではありません。我々は科学を利用するためにこれらのことを信じようとしているだけです。決して否定するつもりはありませんが、『お坊さんが信者の方々に仏の教えを説いている』のと同じく、『科学者が学生に科学の学説を説いている』のと同じ姿なのです
長い歴史の中でいえば最近になりますが、1900年代の相対性理論が出てきた時は、当たり前ですが学者の中でも信じる人信じない人で混乱してたと思います。科学は現状の理論を否定・包含しつつ新しい理論へと進化していきます。医学の世界でも昔はちょっとしたケガで『赤チンやオキシドール』で傷口を消毒するのが当たり前だったのが、今は『やってもやらなくても変わらない』というのが定説らしいです。結局偉い学者先生の言葉を信じていただけで「昔は昔、今は今」なのが科学です。科学なんてそんなもんです。私の理解では『科学は自然を利用するための近似式』みたいな理解です
いろんな学会での発表に参加してみると結構面白いのが、従来の学説を少し進化させた発表をするだけで、反対派の反論が結構激しく出てきます(ほぼ喧嘩の時もあります)。多くの科学者がそうだとはいいませんが、自分たちの立場を否定されるのが嫌なのでしょう。私には既得権益の争いに見えて仕方ありませんが、科学者の論争なんて結構見苦しいものです。恐らく仏教界においても、過去には宗派の争いもあったと思います。世界的に言えばイスラム教、キリスト教、ユダヤ教の対立は今でもあるみたいですよね
科学を否定するつもりは毛頭ありませんが、科学だって泥臭い人間が今を否定・包含しつつ進化させてきたもので、現在の科学が『不変の真理』を表現しているものではありません。
宗教の『修行』という言葉をあえてですが『実験』に変えれば、やってることにそう違いはないのかもしれません。科学でやってることは『真理』の追究であり、宗教でやってることは『真言』の追究のような気がします
煩悩と般若心経の考察
般若心経は『煩悩』にどう立ち向かうかが全てのような感覚を受けます。煩悩といわれるものは人間関係の問題であって、気候と煩悩とかはないですよね。自然の行いに対しては、自然に学ぶという姿勢になれるのに対し、何故か人間関係は割り切れないことばかりです
最近サッカーのワールドカップや野球のWBCを見ていると、選手個々に煩悩があるようには感じられません。煩悩を消し去る何かがあるんでしょうか?
共通して選手の皆さんが言っていることは『楽しむこと』であり、個々の選手が『勝つという目標達成』を一番に考えていたとしても『楽しむこと』を一番にあげています。仕事でも楽しんでやってる方が、目標到達のスケジュールが早かったり、達成レベルが上がってるような気がするし、楽しんでいる方が効率がいいんでしょうね。苦しんでやるより楽しんでやる方がいいに決まってますが、選手たちは『みんなで楽しんでやること』に人間関係を含め何か感じているのではないでしょうか?楽しむということが、みんな同じ方向を向きチームで個々を助け合い成長していけると感じているんでしょうか?
うろ覚えなのですが栗山監督がこのチームは『人のために、誰かのために・・・』という言葉が記憶に残ります。また、スポーツ選手たちが言う言葉に『学ぶ』『成長する』『リスペクトする』という言葉が多いです。今の人は『自分のために・・・する』と言いながらも『チームへの貢献』『相手をリスペクトし学び成長する』ということを改めて言葉にしています。これは『人のために、誰かのために・・・』という言葉を否定している訳ではなく、肯定しながらも自分を出しているに過ぎないのかもしれません
『人のため、誰かのために』『皆が楽しむ』というキーワードが気になります
般若心経には『人間存在の苦の根源は無明であり、無明が滅すれば苦も滅する』と説かれています。無明が意味する「無知の状態」は、何も分からないのではなく、全て分かったつもりでいるというおごりの状態で、ここでいう苦しみとは「自分の思い通りにならないで苦しむ」と解釈されているようです。自分は自分、他人を自分の思うようにはできない。頭の中で理解できても行動や気持ちとしては分かっていない。そういった自分に対して自分がどう向き合うのかが般若心経にある気がします
栗山監督のいう『人のため、誰かのために・・・』という考えからスタートすると「自分の思い通りにならないこと』というのは無くなっていくのかもしれません。『人のため、誰かのために・・・して、皆が楽しむ』が最高なのかもしれません
チームマネージメントの世界からすると『それをどうやって実現するの?教えてよ』になってしまいます。会社の人材育成プランの中に組み込まれ勉強していくんでしょう。宗教の世界でいえば『修行』なんでしょうが、人材育成プランの座学やOJTで簡単に得られるとは思えません
もしかしたら、会社の人材育成プランに般若心経を取り入れた方が人は育つかもしれません
人間関係の煩悩は断ち切れる?
人間関係の煩悩は煩悩が小さいうちなら、こういった考え方で乗り切れるかもしれませんが、一度煩悩が大きくなった状態から煩悩を断ち切るって相当な努力が必要だと思います。煩悩(囚われの身)からの脱出って人の手を借りないと難しいと思います
セルフコントロールの仕方や考え方はネット検索でも結構出てきます。ネットでいっていることは、すべてその通りです。煩悩(人間関係の問題)って、でもできないんですね。分かっちゃいるけどできないんですよね。でできる人もいるのも事実ですが、できる人は最初から囚われてはいないと思います
断ち切るのは、結局『修行』という言葉に戻ってしまいそうです。『修行』と割り切って考えるのも一つの正解かもしれませんし、家族・友人など人の手を借りるというのも一つの正解だと思います
以下、あくまで私の感じたこととして記載します
仏教そのものは、あらゆる人々を救済することを目指して考えられてきたものと理解しますが、ドライもしくは穿った言い方をすると、ヒエラルキーの底辺にいる貧困層に対し、どうすれば理不尽気持ちを楽にできるか考えたものと言ってしまえば、多分それに近いものがあるとも思います
六波羅蜜を見てみると『如何なる辱めを受けても、堪え忍ぶ・・・』とか、結局『現在の状況を素直に認めなさい』といっているような気もします。善かれ悪かれ多分そう言っていると私は感じます。『自分が理不尽』と考えることを断ち切ることとは、『自分が現在の状況を是として認める』ことからスタートすると説いているような気がします。読んでいくうちに仏教って厳しいな、甘くないなと感じてしまいます。だから『修行』なんでしょうね
般若心経『無』の概念
般若心経の教えには『無い』という概念があります。人類が数学的な『0』という概念を得たのは7世紀のインドだそうです。般若心経も7世紀中期に三蔵法師がインドから持ち帰ったそうです。どうも発祥はインドみたいですね
小学生の算数で0を学びますが、私も苦労した記憶があります。存在するものを数えるのは比較的簡単ですが、存在しない無いものを数えるって何?ですよね
人間は死んだら『無くなっちゃうの?』『無くなるってどういうこと?』って考えたこともありました。『宇宙の外は何があるの?』『宇宙の外は無の世界です』って言われても・・・。あらためて考えると『無』という概念は大人になっても難しいです
般若心経が『無』を説いているとすれば、『修行』でしか体得できないというのもなんとなく理解できますし、『無』を説いている仏教ってすごくない?